ARTIST STATEMENT

盆地的空間認識 #2

2021.09.23

絵にするために風景を見ている。それはとても恣意的であるし、“見る―描く”の順番が逆かもしれないが、そうやってできた絵から自分のものの見方に気づくということがある。知らぬうちに、自分がその土地性のようなものを獲得してしまっていることにも絵を見て気づくのだ。

「第10回 はるひ絵画トリエンナーレ」カタログ掲載テキスト

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個展「君はなんもわかってないなぁ」

2019.11.14

描いてから5年ほど時間が経つと絵の見え方も変わるもので、描き上がった時は「また駄作を描いてしまった」と思っても、今見ると案外良く描けているじゃないかと思い直したりもします。そんなとき、自分の絵から「君はなんもわかってないなあ」と言われているような気になります。
この前、10年以上前に描いた自分の絵を東京で見ました。今では描けない大きなサイズの絵で自分でもびっくりしました。この時も人から自分の絵の良さについて「君はなんもわかってないなあ」と言われました。
ですので、今回の個展では新作に加え過去作をたくさん展示します。自分で描いた絵でもうまく説明できないことが多々あります。それでも無理にでも言葉に変換したいという気持ちがあります。描きたいのは視線が奥に進むようで進まない閉ざされた空間。その空間を私はなぜ描くのか、なぜ絵なのか、さらには世界について。そんな小さなことから大きなことまで考える個展にしようと思っています。

個展「君はなんもわかってないなぁ」
FINCH ARTS
2019.9.6-2019.9.22

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「画家の写真展」によせて

2018.12.21

「fold」
自分の描いた絵から自分のものの見方や空間の捉え方を認識する、ということがあります。昔描いた絵の中の空間が歪んでいたことから、物理学的な空間の捉え方に興味が広がりました。
その中で、最近は「空間を折りたたむ」という表現が気に入ってよくモチーフとして登場させています。

「つぎはぎ世界のエッセンス / そこに奥行きはありません / そして立ち上がる壁」
写真はそもそも広い空間をトリミングして撮られていますが、その写真に写っている中のさらに細部が気になることがあります。そうなると、被写体との関係性や思い出などが抜け落ちて、ただ単にインクが作る表情に惚れ惚れしていたり、視ながら触れることの眼福を得ている状態です。

2018.11

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「中景」展 アーカイブポスターに寄せて

2017.11.05

私にとっての中景

本展覧会テーマである「中景」について、画家の視点で書いてくれと山下から依頼されましたが、さて、中景とはやっかいなものです。

彫刻家の友人から、「絵に出来る範囲ってどこまで?」と聞かれ、意外にも私は迷う事なく「あの山まで」と答えました。「あの山」とは京都市内を取り囲む山々を指します。
何を区切りに遠景、中景、近景と分かれるのか、明確な区切りはないと思いますが、「あの山」は私にとって遠景でもあり近景でもあります。しかし中景ではありません。なぜなのかと考えてみると、中景は動くことがないからです。
「あの山」は私との間に何十キロという距離をもって存在していますが、私の視覚と意思あるいは記憶の操作によって、私の最も近い所までやってきて近景と入れ替わります。しかし中景は中景のままです。
さらにやっかいなことは私も動かないということです。
動かない私を軸に、遠景、中景、近景が存在しています。遠景と近景はお互いに交換可能であり、私と中景は動かずただそこに存在しています。
私個人的な問題意識として、私の絵には触知性が抜けているということがあります。確実にそこに在るにも関わらず、抽象的で捉えようのない何かを欲するとき、視覚だけでは力不足ということです。

チラシデザイン:芝野健太

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What the middle distance means to me

I was asked to write about “middle distance” which was the theme of the exhibition however it’s a tricky topic for me to write about.
My friend who is a sculptor once asked me “How much distance can you draw in one painting?” I immediatley replied “Up to that mountain!” meaning the mountains surrounding Kyoto city.
There is no definitive boundary between a distant view, the “middle distance” and our immediate surroundings and so that mountain, to me, is not in the “middle distance”. This is because I think the middle distance never changes.
When I look at a mountain, the space between me and that mountain is defined as a physical distance. My vision, intention or memory will replace or change it from a distant view to a close view. However the middle distance stays still and I don’t move either.
There are distant views, the “middle distance” and a close view surrounding me, a non moving object or axis. The distant view and the close view are interchangeable but myself and the “middle distance” remain.
Due to my self consciousness and problems I find regarding my work my paintings do not have a tactile feeling. Even though something may exist in a space when trying to understand an abstraction your eyesight alone is not good enough.

Design: Kenta Shibano

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ALLNIGHT HAPS 2016 チラシ掲載テキスト

2016.07.27

ALLNIGHT HAPS 2016「私がしゃべりすぎるから/私がしゃべりすぎないために」

企画に当たって:
「ALL NIGHT HAPS」の大きな特徴のひとつに、作品と鑑賞者の間に絶対的に立ちはだかるガラス扉の存在があります。鑑賞者が作品に近寄りたくとも許されません。それは何ともはがゆいものです。しかし、実際にALL NIGHT HAPSを鑑賞したときの経験から、これは立体や空間を扱う作品を展示するべきだと思いました。

(本来、様々な角度から鑑賞されるべき作品が一方向からしか鑑賞できず全体が把握できない状況は、王座に君臨する何者かのようで、またコインに描かれた横顔の権力者とどこか似ていると思いました)

ガラスを隔てた作品の在る空間に身体を置けなくとも、視覚は進むことができます。鑑賞者は制約の中で自分の思考と想像力を総動員し作品と向き合います。ものの全てを把握できない状況を積極的かつ肯定的に捉えたい。それは、目で触るかのようであって彫刻を絵画のように見るようでもあります。
高村光太郎は「触覚の世界について」で「私にとって此世界は触覚である」と述べています。絵描きである私にとってこのことは非常に新鮮なものでした。私はいささか触覚について無頓着であったと思うのです。そして自分と外界との完全なる分離を改めて認識しました。この展覧会を作るうえで目指したことは、「内側の拡張」と「感覚の総動員」です。見えているものが全てではなく、見ることを通して手触りや音や匂いを感じ、さらにその奥にある何かを必死に感じようとする心と思考のトレーニング、とも言えます。

チラシデザイン:芝野健太

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個展「コズミック・ダンス」プレスリリース掲載テキスト

2015.12.21

私の前に壁となって立ち上がる世界に絶対的なものはなく、
自らの立ち位置を不安定にさせます。
遠くを見ようと思って視線を送っても、うまく私の視線は
前に進んでいかない。何かが邪魔をするのです。
しかしだからといって物事を懐疑的に捉えるのではなく、
多視点的で不安定な空間に身を委ね、
多方向からの光をさんさんと浴びたいのです。
それは、空間に自らを溶け込ませ空間と一体的になりたい
という願望でもあります。

今回の個展のメインモチーフは海やサーフガールですが、
それらは私にとってミケランジェロの
ダヴィデ像のようなものです。
山育ちの私にとって海は異質な存在です。
異質なものが自分のテリトリーに入ってくると心はざわつきます。
異質なものは既存のものと合わずゆがみを生じさせます。
しかしそこに思わぬ必然性や合点を見出すことができます。
それはうまく言葉では説明できなくて感覚で捉えるしかありません。
でも今、この感覚こそが信じられるものでないかと感じています。

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